カール・ヤスパース 経歴とその思想発展3 戦後の思想的状況、生の哲学、現象学を経て実存哲学へ

 地に着いた現実の上に思想の再建が始まったのである。これと共に哲学界にも新現実主義の機運が訪れ、戦前二十世紀初頭においては、新カント学派の全盛下に哲学界の主流の外に立つ不遇をかこっていた「生の哲学」の一派が今や時代の脚光を浴びるとことなった。

 大戦及び戦後の最も生々しい現実を経験した人々はもはや以前の哲学界の寵児に振り向く気もしなかった。なぜならばドイツ観念論の統一的世界像も新カント学派の抽象的価値表もあまりにも現実を遊離した、むしろその意味でドイツを誤り導いて辛苦をなめさせた当の幻影に他ならなかったからである。ついに国民を見捨てていた哲学は今、国民から見捨てられたのである。

 前世紀のドイツ観念論のロマン主義や自然科学的実在論の自然主義にも、今世紀の新カント派の印象主義にも生の要求を充たされない国民が、直接に生命そのものを掻き立て吹き込むように見えるディルタイ、オイケン、ジンメル、あるいはニーチェ、ベルクソン等に救いを求めたのは、当然の成り行きであったと言えよう。

 リッケルトが『生の哲学』(1921年)において、これら彼のいわゆる「哲学的流行思潮」を非学問的として排撃したけれどもすでに大勢はいかんともすることが出来なかった。

 この書の中で、ヤスパースもまたその『世界観の心理学』に窺い知る限りの「生の哲学者」として言及されているのである。しかし生の哲学とてもディルタイ流の奥行きの浅い平均的生存の解釈学的分析だけでは到底当時の深刻なる生存意識の要求に堪えるものではあり得なかったし、それより一歩進んで現状打開の創造的生を説いたニーチェもベルグソンもそのままでは表現主義的激情の代表者でしかないことが分かってきた。今や他に真実の新即物主義が求められた。フッサールの純粋現象学の旗印「事象そのものへ」は新しい存在認識の再建として一時この要求に応ずるが如く見えたが、これもまた直ぐその欺瞞を暴露されねばならなかった。それはいわば静謐なる表現主義であり、ないしは結局新カント派と結縁の印象主義に他ならなかったからである。希望をもってこの学派の門をくぐった一部の青年学徒は直ちにまたこの門を出て来た。N・ハルトマン、M・シェラー、M・ハイデガーなどの人々がそれであった。

 現象学的還元に随行していてはいつまた再び生の地平に出て来れるか分からないという焦燥から、彼らは新しい存在の基礎付けを素朴な生存意識の本質のそのものにおいて見出そうとした点で一致していた。しかし、この中でハイデガーがハルトマンの「認識の形而上学」の知識学的平板やシェラーの「哲学的人間学」の生物学的低調を克服して「基礎的存在論」に達した時、生存は明らかに深化させられた地盤の上に立っていたのである。時代の新現実主義が哲学に求めたのは「生の哲学」ではなくて、「実存の哲学」であった。 
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カール・ヤスパース 経歴とその思想発展2 リッケルト、新カント学派との対立

 1921年に、哲学科正教授に就任したヤスパースは専ら哲学的探究に沈潜することになった。同僚リッケルトとの間柄は必ずしも悪いわけではなかったが、少なくとも学問上の立場では明らかに対立していた。

 リッケルトから見れば、ヤスパースは精神病理学出身の一哲学愛好者であり、何ら医学的根拠のない主観的世界観を表白して事足れりとする、リッケルトのいわゆる「生の哲学者」に過ぎない。反対にヤスパースから見ればリッケルトの論理主義的価値哲学体系は哲学の陥る悪しき形式的自己拘束の典型的なものであり、人間の躍動する生命的現実をあまりにも無視した新カント学派一般と共に、彼が乗り越えようと試みる前世紀的範型なのである。このような異質的な同僚を椅子に据えることもまた哲学の進展のためには必要であるとしたリッケルトの寛容の態度は彼の偉大さを表すものであるが、一方学問上では同僚に対しても容赦するところ無く峻烈な批判をあえてした点もリッケルトの彼らしい側面である。

 これに対してヤスパースは、唯々沈黙をもって答えていた。思うに彼の立場からすれば、リッケルトのごとき人は論理的に超越する可能的実存として見られ得るのであり、頑強に自己の立場に徹底するだけそれだけ優秀な「愛しながらの闘争」の相手でなければならないのであるが、かかる実存哲学的意識の完全な組織を彼は近い将来に成就して、もって自己に対する種々の誤解を一掃する心算があったからであろう。

 この頃には彼は唯々、以前の精神病理学的立場から考察した論文『ストリントベルクとヴァン・ゴッホ―スウェーデンボルク並びにヘルダーリンを対比的に参照する病理記述学的分析の試み―』(1922年)、及び『大学の理念』(1923年)の二著を公にしているだけである。

 先の大著『世界観の心理学』が出てから、次に注目すべき小著『現代の精神的状況』が31年に出るまでに十余年の歳月が流れている。しかし、この長い沈黙の期間に彼の実存哲学建設は着々と進捗していたのである。この十年はドイツにとってもまた建設の十年であった。戦後のドイツ国内は経済的困窮に伴う社会的混乱の坩堝であり、政治は確信も見透しもない闘争と足掻きに終始し、人々は絶望のどん底に真っ黒な不安に脅かされるよりはむしろ憂愁を消し飛ばす刹那的享楽へと走った。

 思想界は驚くべきイズムの氾濫を示し、喧々諤々として、そのどれもが国民の進むべき将来の針路を指示するとは見えなかった。経済的回復に先立って緊急に要請されたのはまず国民が思想的に立ち直ることであった。一時は極端なダダイズムにまで陥っていた芸術界のデカダン風潮も次第に超現実主義を通じてさらに新即物主義にまで治癒されて来た。

 誤ったニーチェ主義は深刻に解体されたそれへ、単なる熱情的爆発であったマルクス主義は冷静な批判の対象たるそれへと移行した。

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カール・ヤスパース 経歴とその思想発展1 誕生から哲学への転向まで

 カール・ヤスパース(Karl Jaspers)は1883年11月23日にドイツのオルデンブルクに生まれた。成長するにつれて、哲学を志し、ハイデルベルク、ミュンヘン、ベルリン、ゲッチンゲンの各大学の医学部に学び、その間に法学やその他自然科学分野の講義も聴講した。

 彼は医学の中でも、特に精神病理学を専攻し、研究の後、医学博士の学位を取得した。その後も、ハイデルベルク大学医学部において研究を続け、1910年には同学部の精神病理学臨床助手兼講師に就職した。この頃から数年間に彼の『幻覚の分析』その他の論文が精神病理学の専門雑誌に発表されている。

 しかし、彼の最初に書いた著作は、1913年に出版された『研究者、意思及び心理学者のための一般精神病理学』であり、この著によって彼は精神病理学に新局面を開く、新進気鋭の学者として学界の注目を集めるに至った。

 しかし、この間にも彼の哲学的性向は、彼をして本職の傍ら多くの哲学・文学・諸科学の著作の愛読を通して、着々思索の歩みを進ませていたのであり、その才能は精神病理学の洞察と叙述とにおいて既に露呈されていたのであるが、後に哲学専門へ転向する運命的素地は既にこの頃から準備されていたものと思われる。

 翌1914年に勃発した第一次世界大戦はドイツ全土を狂乱の怒涛に投げ入れ、静かな学都ハイデルベルクもこの怒涛の圏外に立つわけには行かなかった。当時ハイデルベルクはいわゆるドイツ西南学派の牙城であり、すなわちヴィンデルヴァントのもとにラスクを擁してその全盛を誇っていた時代であった。しかるにラスクは招集されて東部戦線に立ち、翌十五年には多くの将来を期待されていた彼の惜しんでも余りある戦死が伝えられた。またこれを追うようにして同年ヴィンデルヴァントも病没し、その後にフライブルク大学教授の職にあって、同学派一方の重鎮であるリッケルトが赴任してハイデルベルクの学風を継承発展することになった。

 ハイデルベルク大学哲学科のこの慌ただしい送迎の間にも、医学部におけるヤスパースの研究生活は滞りなく続けられていた。後に彼の哲学の講義に参加したある人の話によれば彼は病気がちな体質と見受けられたということから、恐らくは彼の体質が大戦の間も学園に留まるようにさせたのであろうと思われる。ヤスパースは1916年に員外教授となり、精神病理学、心理学方面の講義を担当するようになった。

 この頃から彼の心境は次第に哲学への転向の兆しを示し始め、病理学研究の狭い殻を破って人間存在の一般心理学的探究、さらにそれの形而上学的洞察へと向かい始めていたのである。

 1918年の民主革命、続いて休戦条約の成立によって、ドイツには再び平和の日が訪れ、ハイデルベルクが元の静かな学部に戻った翌1919年、彼は大著『世界観の心理学』を刊行した。この膨大な純粋に学問的な著作は一見あまりにも当時のドイツの国情と没交渉のものと思われるが、しかしこれこそ彼が大戦の間も粛々として取り組んだ心理学的、哲学的研究の蓄積に他ならなかったのである。この著にはその類型学的叙述の底を流れる彼の「生の哲学」に似た立場が見て取れるので、哲学界からは新しい「生の哲学」の出現として、注目されることとなった。

 ようやく彼の哲学者としての資格が認められると共に彼の転向の決意も固まり、当時哲学科の方が手薄であった関係もあり、翌1920年には哲学科の員外教授に迎えられ、さらに21年にはリッケルトの下に哲学科正教授の椅子に就いた。

 このように彼の地位が安定した喜ぶべき時期にまた彼の最も悲しむべき事件が起こった。かつては同じ大学で社会学・経済学を講じ、病を得て退職後も、著述や政治的活動に、生涯を捧げ啓発指導し続けてきたマックス・ウェーバーが1920年にミュンヘンで病没したことである。ヤスパースは以前より彼に傾倒し、ウェーバーの科学的態度や人格的活動の特質は彼の最も深く崇敬するところであった。彼の哀惜の情は、彼が1921年に『マックス・ウェーバー追悼演説』を公にしてその業績を高く評価していることからも知ることができる。

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