カール・ヤスパース 経歴とその思想発展1 誕生から哲学への転向まで

 カール・ヤスパース(Karl Jaspers)は1883年11月23日にドイツのオルデンブルクに生まれた。成長するにつれて、哲学を志し、ハイデルベルク、ミュンヘン、ベルリン、ゲッチンゲンの各大学の医学部に学び、その間に法学やその他自然科学分野の講義も聴講した。

 彼は医学の中でも、特に精神病理学を専攻し、研究の後、医学博士の学位を取得した。その後も、ハイデルベルク大学医学部において研究を続け、1910年には同学部の精神病理学臨床助手兼講師に就職した。この頃から数年間に彼の『幻覚の分析』その他の論文が精神病理学の専門雑誌に発表されている。

 しかし、彼の最初に書いた著作は、1913年に出版された『研究者、意思及び心理学者のための一般精神病理学』であり、この著によって彼は精神病理学に新局面を開く、新進気鋭の学者として学界の注目を集めるに至った。

 しかし、この間にも彼の哲学的性向は、彼をして本職の傍ら多くの哲学・文学・諸科学の著作の愛読を通して、着々思索の歩みを進ませていたのであり、その才能は精神病理学の洞察と叙述とにおいて既に露呈されていたのであるが、後に哲学専門へ転向する運命的素地は既にこの頃から準備されていたものと思われる。

 翌1914年に勃発した第一次世界大戦はドイツ全土を狂乱の怒涛に投げ入れ、静かな学都ハイデルベルクもこの怒涛の圏外に立つわけには行かなかった。当時ハイデルベルクはいわゆるドイツ西南学派の牙城であり、すなわちヴィンデルヴァントのもとにラスクを擁してその全盛を誇っていた時代であった。しかるにラスクは招集されて東部戦線に立ち、翌十五年には多くの将来を期待されていた彼の惜しんでも余りある戦死が伝えられた。またこれを追うようにして同年ヴィンデルヴァントも病没し、その後にフライブルク大学教授の職にあって、同学派一方の重鎮であるリッケルトが赴任してハイデルベルクの学風を継承発展することになった。

 ハイデルベルク大学哲学科のこの慌ただしい送迎の間にも、医学部におけるヤスパースの研究生活は滞りなく続けられていた。後に彼の哲学の講義に参加したある人の話によれば彼は病気がちな体質と見受けられたということから、恐らくは彼の体質が大戦の間も学園に留まるようにさせたのであろうと思われる。ヤスパースは1916年に員外教授となり、精神病理学、心理学方面の講義を担当するようになった。

 この頃から彼の心境は次第に哲学への転向の兆しを示し始め、病理学研究の狭い殻を破って人間存在の一般心理学的探究、さらにそれの形而上学的洞察へと向かい始めていたのである。

 1918年の民主革命、続いて休戦条約の成立によって、ドイツには再び平和の日が訪れ、ハイデルベルクが元の静かな学部に戻った翌1919年、彼は大著『世界観の心理学』を刊行した。この膨大な純粋に学問的な著作は一見あまりにも当時のドイツの国情と没交渉のものと思われるが、しかしこれこそ彼が大戦の間も粛々として取り組んだ心理学的、哲学的研究の蓄積に他ならなかったのである。この著にはその類型学的叙述の底を流れる彼の「生の哲学」に似た立場が見て取れるので、哲学界からは新しい「生の哲学」の出現として、注目されることとなった。

 ようやく彼の哲学者としての資格が認められると共に彼の転向の決意も固まり、当時哲学科の方が手薄であった関係もあり、翌1920年には哲学科の員外教授に迎えられ、さらに21年にはリッケルトの下に哲学科正教授の椅子に就いた。

 このように彼の地位が安定した喜ぶべき時期にまた彼の最も悲しむべき事件が起こった。かつては同じ大学で社会学・経済学を講じ、病を得て退職後も、著述や政治的活動に、生涯を捧げ啓発指導し続けてきたマックス・ウェーバーが1920年にミュンヘンで病没したことである。ヤスパースは以前より彼に傾倒し、ウェーバーの科学的態度や人格的活動の特質は彼の最も深く崇敬するところであった。彼の哀惜の情は、彼が1921年に『マックス・ウェーバー追悼演説』を公にしてその業績を高く評価していることからも知ることができる。
関連記事
スポンサーサイト

テーマ : 知的快楽主義
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

takemaster2014

Author:takemaster2014
「学ぶことは快楽だ」をキーワードに、通信制大学、資格取得、e-learningなどの情報を発信してきたいと考えています。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR